俺なりに"霊"というモノが一体どういうモノなのか、ちょっと想像してみたいと思います。2


死後の世界とかも一緒でね、つまり死後の世界は"死後の世界は在るよね、と宗教にしろ個人の考え方にしろ、そう信じて生きている人達にとって"存在するものであり、でね、此処が味噌なんですけど笑、"そういう人達によって本当に存在している"…いわば鏡に映ったようなモノなのではないのでしょうか。

例えば"言霊"ってあるじゃないですか。呪詛、祝詞…お経や九字切りなんかもそうでしょうし、まぁそういう"言葉に宿る霊的な力"です。
まずは代表として九字切りで考えてみましょうか。

あ、その前に一つ。

こういった事を話題にすると"亮はシニカルなリアリストで屁理屈をごねて超常現象を否定している"みたいに捉えられがちなのですが笑、まず誤解の無い様に言っておくと、俺は俺なりの解釈をしているだけであって、在りか無しかという話だと"在り派"です。そこは重ね重ね宜しくお願い致します笑

さて、ではこの九字切りですが、これは正式には『九字護身法』という、端的に言えば日本に古くからある呪術の一つです。
詳しくは無いので笑、その辺は軽く触れるに留めておきますが、この九字切りはwiki様によりますと、

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九字護身法は僧、陰陽師、山伏など、怨霊信仰について密接な関係を持つ職にある者が執り行う儀式であり、効果を発現するためには神仏の加護を得る長い修行が必要とされている。このため、一般人が用いても無意味であり、誤った方法や乱用によってかえって悪霊や災厄を招くとされ、呪法としての性質上で厳しく禁止する声がある一方、一般人でも充分に効果を発揮する、早九字であれば用いても良い、精神集中に効果があるなどとして、特に制限を設けない声もある。

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と、あります。
勿論、九字を切る時の作法もしっかりと決められていて、由緒のある"術"なのです。

さて、此処で話題を九字切りから思いっきり別の方向に飛ばしますが、ちゃんと着地する予定ですので面喰らわずについてきて下さいね?笑
例えば皆さんは、自分の事を100%信じ込む事が出来ますか?彼女や彼氏、もっと進んで伴侶の事は?伴侶に限らず家族の事は?
結論から言うと、人間である限り中々に難しいと思います。

自分の事はまだ良いとしても、こと他人となると、それが彼女彼氏伴侶であったとしても、ちょっとした事から不信に陥る事はままありますよね。

信じたいけれど、信じられない。

コレは間違いなく人間の業だと思われます。そして、幾ら近しい相手であっても、いや寧ろ近しいのなら近しい程にね、反比例して一度その対象に抱いた不信は大きいモノとなっていく訳です。
そして、これは逆に言うと、信じ込めればコレ以上強いモノは無いと言う程の絆にもなるのです。

肝心なのはね、此処だと思うんですよ。

九字切りは、悪霊を払う。儀礼儀式を、1から2、3から4と手順を踏んで、『こうこうこうする為には、こうである』と擬える。前段でwiki様より抜粋させて頂いたその"様式"を忠実に再現する。
そうする事によって、九字切りの"効力"を100%信じられるように持っていくんです。

由緒ある"古くから行われてきた"その"実績"を"忠実"に擬えているその"状況"こそ、自分にとって何よりも信じられる"事実"であり、その事実を100%信じられると言う事は、つまり"自分が見て、感じていた霊を心より否定する事が出来る"訳なんですよ。
"そうする事によって祓える筈、いや祓えない訳が無い"と自分に信じ込ませる、そして周りに信じ込ませる"形式としての力"がつまり、九字切りなのではないのでしょうか。

それが全てとは勿論、俺には到底言い切れるものではありません。何せ俺はそういう状況になった事は無いし、全て想像で書いているだけですから笑
でもですね、コレこそが、つまり"信じる者は救われる"という事に通じるのではないのだろうか、と思うんです…んん、それはまた少し別の話かな笑

これまでダラダラと色々書いてきましたが、何を言いたいのか要約するとですね、"霊的な存在"というのも感じるのも感じないのも"その人"次第、その人の"想い"次第なのではないか?と言う事です。
"在る"と100%信じ込めば"見える"し"感じる"、つまり受信する者としての最低条件はまず此処ではないかと。

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The birthday/なぜか今日は

>なぜか今日は殺人なんて起こらない気がする。
>だけど裏側には何かがある気もする。
>でも、なんか今日は、
>でも、きっと今日は、
>でも、なんか今日は、
>でも、きっと今日は…

今回は、『The birthday』の『なぜか今日は』を紹介致します。

この曲を耳にすれば直ぐに分かると思いますが、彼らは『thee michelle gun elephant』『ROSSO』のチバケイスケがボーカルを務めるブルースロックバンドです。

前述のチバケイスケがVo&Gu、Baにヒライハルキ、Drにはミッシェルでもチバケイスケと肩を並べていたクハラカズユキ、そして今年早々に加入したGuで元『MY LITTLE LOVER』のフジイケンジ、といった構成になってます。
今は脱退しているものの、『ROSSO』ではチバケイスケと共に活動していたイマイアキノブも結成当時から暫くはメンバーとしてその名を連ねていました。

さて、そんなバースディのこの曲ですが、コレね、メロディラインといいドラムワークといい、もう本当に俺の中では非の付けどころが無い位に好きな曲なのです。つまるところ、俺はこういう曲に滅法弱いのです笑

そしてまた、特筆すべきなのがこの曲の歌詞ですよ。コレが良い、本当に良いんです。

胸を焦がす様な恋物語を歌っている訳でもなく、涙腺が開きっぱなしになる様な感動の物語を歌っている訳でもない。
ただ"と或る日"に"ぼんやりと煙草なんか咥えて"、"別段いつもと変わらない日常の中"ふと空を、町を、人を、つまり"世界を"眺めている…きっと、それだけの歌詞。多分。

だけども、それだけの事が実は"自分"には"世界の全て"で、昨今流行りの美しく見える為だけに整形された歪な"世界"なんて足元にも及ばない程に特別な、いや特別とか以前にそもそもが"自分の全て"で。それはただ"其処にだけ存在する"嘘偽りのない世界。

自分が体験してきた、自分を通り過ぎて行った様々な者、物、モノ…ヒリヒリとジリジリとその肌を身を胸を焦がし、理由も無く(無い訳では無いのだろうが少なくともそれと断定は出来ないまま)、ただ"世界"を見つめ想いを馳せる。

>なぜか今日は殺人なんて起こらない気がする。
何の根拠も無いけど、ただこの目に映る虚しくも穏やかな世界は
>だけど裏側には何かがある気もする。
生きていくと言う事は死んでいくと言う事であって
>でも、なんか今日は、
それでも今日だけは
>でも、きっと今日は、
きっと
>でも、なんか今日は、
それでも今日だけは
>でも、きっと今日は…
きっと
本当の所は分かっているんだけれど、"それでも"、"きっと"

何とも上手くは言えませんが、この歌を聴くたびに、穏やかな虚しさと言うか、冷たく乾いたアスファルトに横たわり灼熱の太陽にその身をゆっくりと焼かれ燃え尽きるのをただ待つだけの様な、そういった"どうしようも無さ"を、それでも俺は受け入れるしかないのだなぁ…という気持ちになりましてね。
だからこそ、"そんな今"に対する"次の一瞬"、"次の次の一瞬"、"死ぬまで続いていく一瞬の連続"と相対し続ける気持ちになれるというか、穏やかに開き直れるんです。

いや、まぁ端的に言えば、この歌は本当に好きな歌だ、という事ですね笑

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前回、そして今回とこれまで述べてきた事をまとめてみるに『つまり霊的な事象の存在云々については全て受信者たる"自分"の信じ込み具合(感じ方次第)である』と捉えられがちかもしれませんが、いえ、それが全てだなんて言うつもりは全く有りません笑

皆さんに質問です。

墓ってね、皆さんは誰の為に在ると思いますか?
あ、コレはクイズでは無いですから、"誰が正解""何が正解"なんて言うつもりは全く有りません。この質問への答えは、それこそ人の数ほどあると思います。

では、俺はどう思ってるか此処でちょっと述べてみますね。
結論から言うと、墓は生きてる人の為にこそ在る…と俺は思っています。
前回述べた様に、俺は生き物の死について"テレビの電源がオフになる様なもの"と思ってる訳ですが、そうなると"死"を迎えた存在にとっては墓も糞も有ったもんでは無い訳ですよ。

でも、それでも墓はとても大切なモノだと個人的には思いますし、こういうのをないがしろにするような考え方の奴ってのはそもそも一事が万事ってヤツでね、きっとどんな事に対しても酷く浅慮で他人の事を思いやれない性も無い人間である事でしょう。

思うに墓というモノは、生きている人にとってこその『故人のシンボル』なんですよね。

そして、そのシンボルを『故人に想いを馳せるツール』として、その良し悪しは別として、自分にとって都合の良い形に故人との思い出、そして(在るとするならば)向こう側での故人は"こういう風な筈だ""ああいう感じかもしれない"などを"故人に対する想い"として、それぞれが脳内に、胸に、形作る訳です。

そのシンボルたる"墓"をね、掃除して、お供え物をして、拝んで。
それで誰が一番満足しているのか、それもつまりは自分にとって都合の良い形を作る為の、前述したような"九字切り"に通ずる一種の"型"でもありますよね。
穿った言い方をすれば、その型より"ここまでしたから、してるから、きっと感謝はされても恨まれはしないだろう。守ってくれるだろう。"と信じ込む事が可能になり、そうなると実際、やはり霊的なモノの見え方感じ方も違ってくるのではないか?という事です。

ああ、勿論ですね、其処に眠っている遺骨が自分には何の縁も所縁も無かったとするならば、そこはそれ、"その立場"としての同じ事だと思います。

余談ですが、大震災から暫く後に、それとは全く関係ない所で長く連れ添った旦那さんと死別した生産者がいたんです。
その打ちひしがれた姿と言ったら、見てるこちらとしても本当に居た堪れませんで、つい柄にも無く、母親よりも年上なその女性にこう言ったんです。

こういう場合に辛いのも悲しいのも、生きてる人間だけなんですよ。故人は、少なくとも今は苦しんでいない筈ですよって、こういう事をいけしゃあしゃあという自分が本当に嫌いなんですけども笑、この時は仕方が無いとグッと堪えてね、そう言いました。

この言葉が彼女の辛さを少しでも和らげられたのなら良いんですが、正直、本当の所はどうか分かりません。俺は彼女では無いですから。
亡くなられた旦那さんは、晩年は一人でご飯も食べられない程で、彼女がずっと付きっきりで世話をしていたそうです。旦那さんに『世話を掛けてスマンね、スマンね』と謝られ続けながら、"その時"までずっと。
俺はと言えばね、そういった彼女の苦労も推し量れないまま、ただ無責任に言葉を掛けただけに過ぎないのです。

ただ、俺は常々、そういう気持ちの作り方、持ち方こそが大切であると考えます。
事実がどうだなんて、この場合はそんなに重要じゃない。"本当の所それは白なのか黒なのか"、では無く"それを白とするか黒とするか"こそが大事なんだと思うんです。
俺の言葉がスイッチの切り替えに繋がるなら、まぁ結果オーライじゃないですか。

明るい人生を生きていく為のポジティブシンキングにスイッチを切り替える、その助走的な考え方としてね笑

参りました、本当に"余談"になっちゃった笑
次は、次こそはもう少しまとめて着陸態勢に入りたいと思います。それではまた次回!