おうおう、皆さん毎度。

今宵も此処高知の片隅より日本の各所に発信しますは毒なる電波、扇風機の風を体中に受けながら日向木挽で幾分良い気持ちな人斬り斬人こと亮によります1ムジク、あ、始まり始まり〜。


それはそうと、宮崎県が今、口蹄疫で本当に大変な事になってますね。
最近良くニュースなんかでも名前が出てくる川南町、ここは実は俺の母親の故郷でして、今現在も祖父母や叔父、叔母、従姉弟共が生活している土地で有ります。

正直、随分と心配ですね。
まぁ、母親の里自体は野菜農家であって畜産農家では無いので、直接的に大変と言う事は無いと思うのですが、母親の顔馴染などにも畜産農家は居ますし、どちらにしろ、もう事は直接関係の有る無しで済む様なものでも有りません。

これは、口蹄疫のニュースを見ながらウチの母親がぽつりと言っていたのですが、牛は人に随分と懐くらしいのです。
結果として殺す事に変わりは無いのかもしれません、いや、無いでしょう。ただ、殺す目的が違うと言うだけで。

ただ、だからこそ、辛いのだと思います。
現実的に生活が成り立たない…見通しの立たない将来に対する辛さは勿論の事、せめて精肉するまでは丹念に育ててやりたかった、せめて前向きに『意味』のある死で有れば良かった、そういった家畜たちへの想い。

…ふと、『豚がいた教室』という映画の事を思い出しました。
『最終的に食べる事を目的に豚を育てた或る小学校の或る教室』を舞台に、実際に有った話を元に作られた映画です。

畜産業には、例えば農業などと無縁の場所に住む人たちには…肉が『パックに入ったグラムイチキュッパ』でしか無い人たちには決して分からない、何とも言えない悲しさ、割り切り、そういったモノが有ると思うんです。
実際にこの仕事に従事したとすると、多分、俺は出荷時には別れの辛さから泣くと思います。
それだけ『割り切り』が重要になる、或る意味では達観してないと続かない職業であるのです。

…コレも、所詮は『聞いただけ』の話にしか過ぎませんけどね。

ただ、ウチの大学には畜産科も有りましたし、母親の里では俺が生まれた頃にはまだ家畜として牛、豚、鶏を飼っていましたから、何となく想像は出来るつもりです。
実際には、想像より遥かに辛い事だとは思いますが。

…人間って、凄いですよね。酷い、とは言いません。俺も人間ですから。ただ…凄い。

『いつでも好きな時に肉が食べたいから』という理由で、命を食べる為に育て、食べる為に殺す事が出来るのです。
人間が人間たる、最大最悪最凶のエゴイズムだと思います。

ですが、それでも俺は肉料理が好きなのです。ベジタリアンには、まずなれません。
また、そんなエゴイズムから逃れたくてベジタリアンになった所で、一体何が解決すると言うのでしょうか?何も解決はしないと思うのです。

それなら、ですよ?
それならいっそ、無駄なく大切に、残さず、美味しく食べる事こそが…その命を吸収して、その上にまた力強く生きていく事こそが…せめてもの…。
などとも思う訳ですが、また裏を返せば、これこそ至極自己中心的…日本人的な逃げの考え方かも知れません。

知れませんが。

でも、せめてそう考えないと、殺された牛や豚や鶏などの家畜たちの魂は何処に行くと言うのでしょうか。せめてそう考えないと、余りに救いが無さ過ぎるじゃありませんか。
…これも反吐が出るほどのご都合主義では有るんですけどね、それでも俺は敢えてそう考えて、肉を食います。
貪り食って、取り込んで、己の血肉としています。そうして、『ご馳走様でした』と言うのです。

…ですが、口蹄疫はそうじゃない。口蹄疫による殺処分は、そうじゃないですよ。
人間が食う為に育ててきたのに、それすらも叶わない。

それでも…殺される事には変わりない?何て、まだ言えるヤツが…そんな事を言うヤツがいたら、歯が全部折れて飛び散る程にぶん殴ってやりたいです。

何万頭も、ただ殺されるだけに殺されているんですよ?余りに惨い。そんな死に様が有りますか。
そうして、せめて『出来るだけ美味しく、皆に愛される様に』と丹精込めて世話をしてきた人たちの無念といったら。目的がどうであれ、彼の人たちが家畜に注ぐ愛情に嘘や偽りは無いんですよ。それなのに。

俺には何も出来ませんが、基金には協力もしますし(偽善でも何でも良い。役に立てるんなら、それで良い。)、せめて、真剣に事の成り行きを見続けていきたいと思います。
あと、早く事態が終息するように祈ります。
その対象が神だって悪魔だって何だって良いんです、そんなもん。寧ろネガティブに殺されていく命達に祈ります。

だから、皆さんも、何とかそれぞれの出来る形で協力して上げて下さい。お願いします。

それでは、6月6日分の楽曲紹介に移ります。スミマセン、こんな流れで笑
でも、書かずにはいられなかったのです。

Ujang Suryana/Kang Mandor

今回はガムラン系ですね、盲目のスリン(竹笛)奏者『Ujang Suryana(ウジャン スルヤナ)』の演奏に依る『Kang Mandor』と言う曲です。
ガムランにも色々と棲み分けが有りまして、この曲はどちらかというと『ジャワ・ガムラン』に分類されるようです。

wikiによりますと、このガムランという言葉は『ガムル(たたく、つかむ、あやつる)』という動詞の名詞型らしく、この曲を聴けば大体のニュアンスは分かって貰えると思いますが、銅鑼や鉄琴の類など叩いて音を出す楽器を用いた曲が主流となっています。

俺が常々好んで聴いているディジェリドゥ奏者『GOMA』の楽曲も、積極的に取り入れている節が有りますね。
個人的にはこの辺りからガムランへの興味が湧いてきたと言っても過言では有りません。

この辺りは今後も色々と聴いてみたいジャンルですね。